インド美術のもう一つの見方/仏像は踊る

大正大学非常勤講師 河野亮仙

ジャワ出土の曼荼羅群像  
ジャワ島の建築・彫刻については、古くから詳しく調査されているが、今世紀に入って発見された青銅像については、インド密教学自体が未成熟であったこともあり、十分には研究されていなかった。近年、チベット系のマンダラやその元となった梵文テキストの研究が進み、松長恵史によって中部ジャワ・スロチョロ出土の青銅像、東部ジャワ・ガンジュク出土の青銅像についての報告がなされた。  
一九七六年に中部ジャワで発見された十世紀初めのものと目される密教尊像は、松長恵史によって『サマーヨーガタントラ』の金剛薩族のマンダラを構成する諸尊であると比定されている。密教史上で瑜伽部から無上瑜伽部への過度期の密教がジャワに到達していたことを示す、重要な遺品の発見である。  
東ジャワで発見されたものもまた、それに続く時代に製作され、十世紀末から十一世紀初めに活躍したパーラ朝のアーナンダガルバの表した金剛界曼荼羅の儀軌・注釈書とよく一致することが解明された。密教史上で極めて重要な尊像群である。  
一方、インド舞踊史の方からは、この時代においても、立位のポーズの密教尊像に「ジャワ舞踊」ではなく、バラタ・ナーティヤムに近い「インド舞踊」が示されている点が興味深い。右足を伸ばした威嚇のポーズ展右、左足を伸ばした展左など、図像学のみならず、インド舞踊の方でもアーリーダ、プラティアーリーダと呼ばれる基本ポーズである。  
十センチ前後の尊像であるから、インドよりもたらしたと見ることも不可能ではないが、東部ジャワの群像の内部に、古代ジャワ語で尊名が記されている。また、ボロブドゥールに見るように、ジャワには立体マンダラの形成を試みる風土があるので、インドにも見られないような青銅像による曼荼羅が何セットか製作されたのであろう。

まとめ     
インドを中心に東南アジアの遺跡、遺品に残された像から描かれる舞踊史は、次の様にまとめられる。最初期の静止的なトリバンガの像が、グブタ期に至ると練って歩き出すような動きのあるバランスに変わる。手に蓮華などを持って捧げる崇拝行為が予測でき、それがインド舞踊の始まりと考えられる。  
後期密教の時代には、より、ダイナミックに尊像が描かれることが看取される。その移行期にある金剛界曼荼羅の五仏も、座りながらではあるが、左右の手が印相を結びながら踊っていることが分かる。  
そして、これらグブタ様式であれ、パーラ様式であれ、インド文化の及んだ、インド化された東南アジア諸国の宮廷の舞踊はインド舞踊であったことを図像は示す。


    注1 伊東照司『インド仏教美術入門』雄山閣、1986年、図版12、22参照。
    注2 伊東照司『インドネシア美術入門』雄山閣、1989年。ベトナム社会科学院編『チャム彫刻』連合出版、1988年。カタログ『アンコールワットとクメール美術の1000年展』1997年、朝日新聞社・NHK。奈良康明編『大英博物館・4/インド・仏教美術の開花』1991年、日本放送出版協会。
    注3 カタログ『インドネシア古代王国の至宝』1997年、東京国立博物館、p56、57。
    注4 伊東『インド仏教美術入門』図版12、22。
    注5 『チャンパの彫刻』図版20、21、56。
    注6 伊東照司『アンコールワット』山川出版社、1993年、p100、105。
    注7 『大英博物館・4』図版26、28。
    注8 山本智教「密教の芸術」『講座・密教・4/密教の文化』春秋社、1997年、p37、38。清水乞「密教の美術」『アジア仏教史・インド編・4』佼成出版社、1974年、p221−227。
    注9 清水乞「美術を生み出した背景」『アジア仏教史・インド編・4』p166。
    注10 清水「美術を生み出した背景」p183、
    注11 立川武蔵「密教へのアプローチ」『講座・密教・4』p266−271。
    注12 杉浦康平「金剛界マンダラのシンボリズム」『曼荼羅』大阪書籍、1983年、p285−289。

 

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