延命寺のような普通のお寺には、由緒沿革というほどのものはありません。高名な名僧が再興したというような記録もありません。よく、神社やお寺のしおりを見ると、天保何年に焼失、第二次世界大戦で焼けて復興したというような記録が多いと思います。 お寺ばっかり火事にあっているわけではないのですが、民家が焼けても記録に残らないし、お寺は何百年も持つように造られています。また、人が集まりますので、それだけ火事に当たる確率は多くなります。
郷土史家、小島先生の『浦和市史』によると、延命寺は、浦和市内にある平安時代創建の十二ヶ寺の一つに数えられ、天長6年(829)慈覚大師の創建になるといわれる天台宗の寺です。本尊は延命地蔵菩薩です。 小島先生と呼ぶのは、わたしが浦和市立木崎小学校を卒業するときの校長先生だったからです。先生のおっしゃることだから、素直にそのまま信じていれば良いのですが、調べないと気がすまないという「学者魂」があって、今のところ、この伝説は確証できずにいます。小島煕の煕という字はインターネットで出るでしょうか。アメリカ人の考えたシステムですので、漢字には十分対応しておりません。 さて、本太の延命寺は平成2年1月30日に火災に遭いました。前の本堂は東松山の廃寺になった慈雲寺を浦和で組み立て直したものです。お殿様の寺なのでなかなか立派なものでした(写真右)。その前はというと、昭和12年5月8日に焼失しています。今の古老たちはまだ覚えてますが、小さなお堂だったそうです。 そして、そのまた前、戦国時代の天文6年(1537)に焼けているといいます。どうも、この延命寺とは、真言宗豊山派の玉蔵院のことのようです。玉蔵院にも、地蔵堂があって、延命寺とも呼ばれていたようです。あるいは、玉蔵院の地蔵堂から独立して、後に天台宗の僧侶が住職をするようになったというストーリーも考えられますが、どうでしょう。 一番確実なのは、境内にある天然記念物のムクノキです。樹齢約四百年ですから、その頃にはこの延命寺山と呼ばれる丘が聖地になっていたのでしょう。聖地といっても、村の共同墓地です。おそらく、そこに小さなお堂を建てたのが始まりでしょう。 父、師僧河野亮永は史学の出身なのでよく調べていましたが、延命寺には古くは正和4年(1315)、また室町時代のものなど板碑が数点あります。1315年で延命寺の歴史を確定してもいいのですが、板碑は後から移すこともできます。
最近、江戸時代の本寺末寺の記録を見ました。雄山閣『江戸幕府・寺院本末帳集成』です。実家の東泉寺は吉祥寺の末として載っていますが、延命寺は載っていません。もちろん、玉蔵院の末としても記録はありません。 学者的にいうと、記録があれば確かめられますが、記録がないからといって、なかった証明にはならないのです。おそらく、お堂に旅の僧が時々やってきて、いい坊さんだったら住んでもらって、寺子屋をやったり、お弔いをしてもらったり、いろいろなことを教えてもらおうと迎えたのでしょう。そういう状態だと、宗派はその時来た旅の僧ごとに違うことになります。 本末集成に吉祥寺の末として記載がなくても、単に吉祥寺が管理していなかった、坊さんを派遣していなかったというだけで、江戸時代に延命寺がなかったと論証できるわけではありません。実際、歴代住職の墓があります。 どっかからお坊さんがやって来て住んだり、また行ってしまって次の人が来て、というような状況が想像できます。昔は、そんな寺が多かったのではないでしょうか。寺墓を調べても無住時代がありますが、たとえ住職がいなくても坊さんの様な人が住んでいた可能性は残ります。
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