Enmeiji延命寺

延命寺 本太風土記

 

本太風土記

<円頓戒と往生極楽>

Vol.18

 

日暮里駅のそばに谷中の天王寺という名刹があります。代々、天台学者が住職を務める寺ですが、大正大学の学長まで務められた福田堯頴大僧正が明治・大正・昭和の長きにわたって住職を務め、毎月、法話をなさってました。
 先代の亮永師もその席に連なったものと思われます。本棚から古色蒼然とした福田老師法話集という、昭和三十八年再版、二百八十円の本を見つけて、拝読しました。
 円頓戒についてしばしばお話しされているので、ご紹介します。円とは欠け目のないまどかな教え、頓とは早い、すみやかということです。
 円頓戒を行うものは菩薩であるので円頓菩薩戒ともいいます。天台宗では鎮護国家のために、大乗戒壇、すなわち、円頓菩薩戒を受けるための機構を設立しました。
 師は、

一、敗戦後、日本が復興するには円頓菩薩戒を行わねばならぬこと。
二、今生を終わって浄土に往生するには円頓菩薩戒を行わねばならぬこと。
三、成仏するには円頓菩薩戒が基本となること。
 以上の点について述べられています。
 敗戦後と福田老師はおっしゃっていますが、九月十一日のニューヨークの事件とイラク戦争の後の世界、それ以前からの不況と構造改革が唱えられ、また、地域社会が崩壊して犯罪が多発するようになった今の状況は、第二次世界大戦後に少し似ています。このままではいけないのは確かですが、出口が見えません。
 鎮護国家というと平安仏教の代名詞みたいですが、決して国民、民衆を忘れたわけではありません。当時は唐天竺と朝鮮半島しか知らない中での日本で、唐と対等の国になろうと努力していた時代背景があります。
 今日、鎮護国家は世界平和と地球を護ることと読み替えた方がいいように思います。

国宝とは
 円頓戒というのは、己を正しく律するとともに、人を憐れむ行為であって、その行いのある人を菩薩と呼んでいます。
 たとえば、数珠には百八の珠があり、それが連なって数珠となっていますが、一つ一つの珠が国民であって、数珠が国家であると老師はいいます。一つ一つ、一人一人が菩薩戒を保って宝石の珠になると、日本は健全な文化国家になって進歩するのです。一人より百人、万人、千万人と円頓戒を持つことを進めています。
 円頓戒は、簡単にいうと法華経の戒法であり、伝教大師は法華経の修行を円頓戒として示されています。これによって在家の方も日々の仕事をしながら修行できることになりました。
 円頓戒という戒法の実体は、如来の万善万徳、すなわち、仏様の善根と徳の固まりです。お釈迦様から代々伝えられている如来の力を受けるのが受戒です。
 釈迦如来は母のごとく、私どもは小児のごとく、そして戒は乳のごとく、あるいは離乳食のようにかみ砕いて消化しやすくしたものです。厳しい修行をしなくても、信仰の口を開いて、乳のように受け入れればいいのです。
 円頓戒を受けると自然に悪い行いをなさぬようになり(一、摂律儀戒)、心に励みがついて良いことを進んでするようになり(二、摂善法戒)、世のため人のために尽くすようになります(三、摂衆生戒)。伝教大師はそういう人を国宝と呼びました。
 
極楽浄土へ往って
     成仏する

 この三つの行、戒法を行うとしらずしらずのうちに善根功徳が生まれ、その功徳を南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土の方へ回向する、その功徳を融通して回してやると、次の世には極楽浄土に生まれます。安楽国ともいいます。
 そこで、阿弥陀様の教えを受けてさらに修行を重ねると、悟りを開いて仏となることができます。来世得作仏のため、次に生まれて仏となるために、この世で円頓戒を受けておく必要があります。
 天台宗では諸行往生といって、念仏だけでなく、戒律でも座禅でも往生できます。
 阿弥陀様が法蔵比丘として修行中に、四十八の願を立てました。その中でも重要な第十八願があります。
 臨終の時にわずか十念を唱える、つまり、十回、南無阿弥陀仏と唱えるだけで人々が極楽に生まれるのでなければ、私は仏にはならないという誓いを立てられました。
 法蔵比丘は修行されて阿弥陀如来、仏になられましたから、我々が極楽に往生することはすでに決まっております。
 また、円頓戒を授けることによって、亡者も成仏することができるようになります。如来の万善万徳を亡者に回すのが引導を渡すときの中心です。
 まとめてみると、このようなことを福田老師はおっしゃいました。

葬儀の意味
 理想的には、生前に受戒をしているのが良いのですが、皆様、日々の仕事に追われて忙しいので、最後の手段として、葬儀の際に受戒して戒名を授けるのが、今はほとんどになっています。
 もともと、仏教でも鎌倉時代くらいまで、葬式というのは僧侶の葬儀しかやったことがありませんでした。村では、村の長老が神主のような役をして、村人だけでお弔いをしていました。
 室町時代になると、時宗の一遍上人らが諸国を巡り、戦場の後始末みたいなことをしていました。ようやく江戸時代にお坊さんが葬儀をやることが普及してきます。
 江戸幕府がキリスト教の取り締まりを兼ねて、僧侶が葬儀をやれということになりました。その葬儀のやり方というのも仲間の僧侶に対する儀式しか知らなかったので、没後作僧といって、亡くなってから戒名を授け僧侶にして葬儀を執り行うことにしました。
 お坊さんの場合は出家するときに戒名を授かっています。いわば、ブッディスト・ネームです。
 一休さんの戒名は宗純です。一休というのは道号で一休宗純といいます。それに院号や居士という称号を付けます。
 院号も居士もお寺みたいに塀で囲まれたような屋敷に住んで仏道に励んだ人、功徳を積んだ人という意味です。
 葬儀でお経を読むのは、わずかの間ですが、あわてて仏教のにわか勉強をして修行しているわけです。それに引き続き引導を渡します。引っ張っていって、仏道に導き入れて仏と同じ悟りの位、大覚位に行くという意味です。
 さらに、葬儀次第の中で十念を授けます。先ほどの南無阿弥陀仏、十返です。これで極楽往生が約束されます。
 このように、葬儀の短かい間に、受戒して、修行して、引導を渡されて、十念を授かってというように、二重三重、念入りに往生成仏できるように工夫されています。 

追善回向ということ
 それでそのまま往生極楽するような功徳を積んだ立派な方もいますが、たいていは週毎に審判を受け、四十九日になって極楽に赴きます。
 初七日は不動明王、三十五日は地蔵菩薩、四十九日は薬師如来というように守護する本尊がいます。お地蔵様は、特に子供を間違いなく極楽に連れて行ってくれます。
 四十九日の間、少しでも亡者の足しになるようにと、残された家族は追善供養をします。
 法事や布施行をして功徳を積みます。放生会とかかごの鳥を放して逃がしてやったりすることもあります。その功徳を亡者に回してやることを回向といいます。後から追っかけて善いことをして裁判官の心証を良くするわけです。ですから、四十九日法要は実際の日より後になったら審判の日に間に合わなくなって大変です。
 遺族の方からみると、通夜葬儀に引き続いて火葬、そして埋葬というように、一つずつの儀礼を経験して、自分に言い聞かせるように家族の死を納得させます。
 かけがえのない自分の分身を喪失したことを認めたくないものですが、それでは亡者は浮かばれません。自分の元に引き寄せておきたいくらいかもしれませんが、それでは迷ってしまいます。
 嫁に出すようなものです。ちなみに結婚式、得度式、葬儀の式次第はよく似ています。新たな旅立ちをするわけです。
 四十九日で極楽浄土に送り出してあげないといけません。たいていは、そこで埋骨となります。
 火葬して、それを抱くように部屋に飾って、さらに土に返してというように、順次、けじめをつけていきます。
 一周忌、三回忌、七回忌というのも、まだまだ功徳が足らなかったかもしれないということで仏を供養します。三十三回忌で先祖の霊と集合し私たちを見守ってくれます。
 お仏壇には近い家族の位牌やご先祖様の位牌に囲まれて中心に仏像がまつられます。ちょうど、極楽に行ったご先祖が仏様の説法を聞いているような構図になっています。 テレビもインターネットもなかった時代に工夫された、極楽世界を覗く窓ですね。

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掲載日 : 2000.03.05
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