精霊と女性の国 北タイ

14 ブン(功徳)と福田としての僧
 このような生の連続は、しかし仏教の正当教義ではそれ自体が苦である。そしてたとえいくら良いカルマあるいはブンを積んだとしても、この再生の永久運動(サンスクリット語サムサーラ、輪廻)から逃れることはできない。この意味で「救い」は良いカルマからは得られない。真の救い(サンスクリット語ニルヴァーナ、涅槃)とはこの再生の永久運動から脱することであって、それは悪いカルマはおろか良いカルマも含めて、行為そのものを停止することによって達せられるとされるのである。
 しかしもちろんこのことは至難で、この方法による救いをめざすのは宗教的専門家である僧だけである。一般大衆はもっぱらまず第一に現世での望ましい帰結と、そして第二に来世での望ましい帰結を得るために、ひたすらブンを蓄える行為に励むのである。
 良いカルマすなわちブンは、理論上はよい行為全てを指す。独り言や心の中の考えですらブンまたはバープとして登録されるし、部屋の中で一人で仏陀を拝むことによってもブンを行うことができる。これほど内的な行為でないとしても、よく知られるように殺生をしないこと、動物の命を救うこともブンである。また他人がバープを行おうとすることをやめさせたり、他人がブンを行うようにすることも自己のブンになる。ここにはすでに、完全に個人にのみ帰属し当の個人に回収される結果を生じるという正統的なカルマの理論をはみ出す萌芽が認められる。
 しかしもっとも標準的なブンの行為は、お寺や僧に対する寄進、喜捨である。これは男も女も行うが、中心的なのは女である。というのは、男は僧になる修行をしたり、あるいはさらにほんとうの僧になることによって、多くのブンを蓄えることができるからである。
 僧あるいは見習い僧になる人は自分自身のために莫大なブンを蓄えると同時に、大衆が僧に対して行う喜捨が、テーラヴァーダ的伝統において大衆自身でブンを獲得する最高の道徳的行為であるという点で、一般の人々にとってブンの源泉という重要な役割をもつ。僧は大衆にとってのブンの畑として役立ち、僧の身体はその意味で福田(ふくでん)と考えられているのである。
 僧は自らは生産行為その他の世俗的な行為をしてはならないとされているため、食事を初めとする日常生活を一般の人々の喜捨に負っている。したがって僧と一般の人々の間には、一般の人々が僧に喜捨をしてその修行を支え、僧は一般の人々にブンを与えるという互酬的関係がなりたっているのである。

川野美砂子

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