精霊と女性の国 北タイ

15 ブンの共有と移譲
 ブンはタイの人々にとって行為についての抽象的な観念にすぎないのではなく、人の内部に蓄えられ、石を積みあげるように一つ一つ増えていくというような具体性をもつものである。このような具体性は比喩的に理解されている。つまりブンは通貨のように蓄えられ、数えられ、そして他人に与えたりもらったりすることができるのである。また教育を受けたある仏教徒は、ブンを電気のようなものとして語ったという。
 共有され移譲されるブンをろうそくの灯に例えるタイ人もいる。「ろうそくの灯は他のろうそくから灯をもらい、他のろうそくを灯して、元のろうそくの灯を減らすことなく灯の数を増やしていくことができる」。ここで強調されているのは、ブンは通貨のようにある人が他の人の与えれば減少するというものではなく、むしろ「穢れ」のように伝染し、「羞恥」のように共有されるということである。
 このようにブンは本来的には極めて個人的な行為でありながら、それが個人に登録され、内在化されるとともに一種の実体性を帯び、それによって他者と共有したり移譲しあったりすることが可能になるのである。
 ブンの共有と移譲が行われる最も重要な領域は家族である。人々は僧に日々の食物を喜捨するとき、そのことを家族のために行う行為として語る。また自分を育ててくれた両親の行為について、多くの人々は、両親はこのことで特別のブン(ブンクン)を自分たちと共有し、後に面倒を見ることでそれを両親に返すのだと語る。
 少年が見習い僧として寺へ入るとき、このことで生じるブンは母へ、青年が僧として得度することで得られるブンは父へ移譲されるという人もいる。また両方の機会で生じるブンはどちらも両親に移譲されるとも考えられている。実際テーラヴァーダ仏教では、出家することは、非常に希な場合を除いては究極的救いであるニルヴァーナに到達するための手段としてよりは、むしろブンの源泉として考えられているのである。
 タイにおいてはカルマは理論的には非常に個人的なものであるが、実践的には極めて社会的なものである。本来個人的なカルマの理論が社会的相互作用の中で機能するために、内在化され実体化されたブンの観念、そしてそれと関連してブンの共有及び移譲という観念が重要な意義をもつことになる。
 人々は例えば共同で新しい事業を始めるとき、まず初めにワット(寺院)に行って一緒にタン・ブンする(功徳を積む)。タイの人々はバナナの葉を四角に切って、噛みタバコを包んだり、蒸したもち米にココナツの果肉を砕いて混ぜて包んだり、というように様々な用途に使うのだが、タン・ブンのときにはバナナの葉に線香、ろうそく、生米、花、10バーツか20バーツの紙幣を乗せて手巻き寿司の要領で円錐形に巻いた物、スワイを持っていって僧侶に喜捨し、お経を上げてもらう。こうして共同でタン・ブンすることで、共同のアイデンティティを築くのである。
 私たちが北タイの村に住んでいた頃、村の人々はよく、私たちがこうして出会ったのは前世で一緒にブンを積んだからに違いないと言ったものだ。

川野美砂子

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